東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

上田信,「体臭のある音 アジア感の転機点」、1995

2006-06-14 17:36:12 | フィクション・ファンタジー
『思想の科学』1995年11月号 特集 アジア像の現在形 所収。

この筆者は、『伝統中国 ― <盆地><宗族>にみる明清時代』や『トラが語る中国史 ― エコロジカル・ヒストリーの可能性』の著者と同一人物なんでしょうか?

芸能山城組論。
著者は芸能山城組の変化をふたつの世代にわけて分析する。
第1期は70年代後半から80年代前半(に20歳前後だった世代)。

この時代は簡単にいうと、まじめな模倣の時代、若い学生たちが、バリ島のケチャを一生懸命学習した成果をみせる。(とまあ、短くまとめると語弊があるが、話をすすめる。芸能山城組関係者、ファンのみなさま、許せ)

第2期は80年代後半から90年代前半。

この時期の変化を、著者は『地球の歩き方』の出版とからませて、語る。
円高の進行、航空券の値下げにより、海外旅行が大学生に身近になる。
『地球の歩き方』をつかえば、手軽にバリ島の「本物」にふれることが可能になり、そうした「本物」に比べれば、芸能山城組の音など、とてもかなわない。

ここでいう「本物」というのは、もちろん、ガイドブックに導かれ、演出された「本物」であるわけだ。
上田信さんは当時、中国に留学中であったが、『地球の歩き方』には留学している彼らよりも詳しい情報が盛り込まれてあった。
たかだか1ヶ月か2ヶ月旅行した連中に、こんなガイドブックを作らされるとは!
とはいえ、彼ら留学生の知っているような情報をもりこんだとしても、売れるガイドブックにはならなかったろう。

こういう世間の動きにたいして、芸能山城組が対抗したのは(対抗するとか、世間にアピールするという意識があったかどうか疑問だが)、コンピュータや高性能の録音技術を駆使した、ハイブリッドな音響、音楽であった。
『輪廻交響楽』がそれであり、その方向を継承したのが、大友克洋 ・原作監督の『アキラ』のサントラである。

『アキラ』の音楽への芸能山城組の参加は、大友克洋 じきじきの希望であった。
サウンドに関しては、もうしぶんなく、芸能山城組の「作品」として傑作だと、わたしは思う。

話ずれるが、アニメの『アキラ』に関しては、ちょっとなじめませんね、わたしは。
動画も音楽もいいが、せりふと声優のテンションの高さ、せりふの録音の平板な奥行きのなさ、これがひっかかった。(原作のマンガは好きです。)

というわけで、廃墟や焼け跡、架空の宗教団体の神殿、病室、といったシーンの音楽として、すばらしいものだったとおもいます。

しかし、上田信さんもいうように、ここで芸能山城組はゆきづまる。
バブル経済の波にのったハイブリッド・ミュージックが過去の遺産を食いつぶし、未来への種子を不稔にしたような現象ではないだろうか。と、著者はいいたいようだ。

わたしはこの点、ちょっとちがうが、うまくいえない。
わたしは、芸能山城組ではブルガリアの合唱が好きだ。最初から、ステージ用に編曲したものだからいいのでは?
チベット声明やバリのケチャをステージや録音で楽しむには限界がある。
それから、やっぱり、バリ島のケチャも、近代になって創造され演出されたものである、というのがわかってきたが(当時誰も知らなかったんだよう!!)、そうした、演出された伝統というものに対する対処のしかたが、まずかった、というか、誰がやってもそうだったろうが、無理があったのではなかろうか?


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